1891年1月29日、兄カラカウアの後を継いで53歳で即位したリリウオカラニは、
まずは王位継承者として姪のカイウラニを指名します。彼女は兄以上に過激な王政復古主義
であったため、アメリカ人勢力との対決は泥沼状態になっていきます。また、王室の財政
は、カラカウア時代の支出過多もあって完全に破綻していました。
彼女は即位後すぐに王党派の国家改革党を中心とした組閣をしようとしますが、アメリカ
の力の強かった議会が強く反対、妥協に妥協を重ねたアメリカ寄りの組閣を議会が承認し
たのは、なんと即位後1年10ヶ月もたった1892年11月のことでした。長い政治危
機も一段落したということで、議会は93年1月14日に閉会することが告げられ、アメ
リカ系有力者たちは休暇に入ったりしていました。
ところが閉会直前の1月13日、リリウオカラニは、王党派の議員と共謀して、みずから
内閣不信任案を提出、主要メンバー不在の議会において新内閣を組織、14日当日には、
ベイオネット憲法を破棄した新憲法発布を「新」閣僚に伝えて議会を閉会という、ものす
ごい強硬手段に出たのです。
アメリカ人側がこれに黙っているはずがなく、15日には、白人系の公安委員会が市民集
会を呼びかけます。ハワイ語新聞は集会への不参加を訴えましたが、結局、16日の集会
には1000人近くの民衆が集まることとなり、その場で女王の糾弾とアメリカ軍の出動
が要請されたのです。
翌17日には、最高裁判事であったドールを首班としてハワイ暫定政府が成立宣言、女王
に向けて退位を要請するとともに女王を監禁、ハワイ王国は無残な姿で幕を閉じたのです。
その後、1894年にはハワイ共和国が成立、ドールは大統領になりますが、1898年、
米西戦争をきっかけとしてハワイの軍事拠点としての重要性をアメリカが再認識、98年
7月、ついにアメリカ領になってしまうのです。
リリウオカラニ自身は、95年に起きた王党派の反乱に協力したかどで有罪判決が下され、
ワシントンプレイスの自宅で軟禁されますが、その後、共和国(当時)への忠誠と、一般
市民として静かに余生を送るという書面にサインすることを条件に許されて渡米、そこで
クムリポの英文翻訳や、自らの正当性を訴えた「ハワイの女王によるハワイの物語」を執
筆して暮らしましたが98年に帰国、1917年に没するまで、ワシントンプレイスで静
かな余生を送ったということです。これより前、1878年に彼女が作詞作曲していた、
「アロハ・オエ」、もともと人間・自然・神との一体感を歌ったもの悲しい曲でしたが、
祖国を失った最後の女王による悲痛な別れの歌にもなってしまったのです。