1893年8月、大統領による調査団は、「アメリカ公使スティーブンスが国際犯罪を犯したと
確信する。アメリカは国の名誉と威信をかけて誤りを正さなければいけない」と結論を下
します。そして、解任されたスティーブンスに代わって着任したウイリスがリリウオカラ
ニと面談、公使は女王に「アメリカは、女王の復位を認めます。女王におかれても、今回
の首謀者にはできるだけ寛大な処置をお願いしたい」と申し出たのです。
しかし、リリウオカラニは、首謀者に対しては死刑及び財産没収を主張して譲らなかった
のです。暫定政府内にも支持者の多かったカイウラニを女王に即位させるという案につい
ても、彼女は「カイウラニはまだ若すぎる」という理由でそれを一蹴、カイウラニに対し
ても、「女王就任のオファーがあっても決して受けないように」指示、王政復古は成立し
なかったのです。
1897年、指導力を欠く共和国では、白人社会の世論でも「カイウラニが女王になって
くれればハワイは再び希望が持てる」という意見が噴出、新聞の論調もカイウラニ女王を
期待するようになります。あれだけハワイにつくしたビショップも、共和国になってサン
フランシスコに引退してしまいました。
1897年11月、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国しました。ホノルル港は黒山の 出迎えです。演奏禁止となっていた「国歌」ハワイ・ポノイがカイウラニの前では何度
も 演奏され、共和国政府も「ミス・カイウラニをプリンセス・カイウラニと呼んでかまわな い」という正式コメントさえ出したのです。
しかし1898年、米西戦争の影響で、太平洋防備を焦ったアメリカは、急遽ハワイ併合
を決意。そして翌1899年、カイウラニはわずか23歳5ヶ月の生涯を閉じたのです。
ハワイ最後の希望の星が消え、ハワイの新政府には、ハワイ市民のみならず、全米から非難と抗議の手紙が殺到したということです。
カイウラニは、生前、常に叔母のリリウオカラニに気を遣いつつ、彼女の顔をつぶさないよう努力してきました。リリウオカラニには、姪のカイウラニに人気が集中
するのが、あ まり愉快ではなかったという背景もあったようです。もしも、カイウラニが叔母の意思に 逆らってでも女王に就任していれ
ば、「ハワイ王国」は、もうしばらくは延命していたか もしれません。