ハワイの神話と伝説~歴史を変えたかもしれない女性たち~カイウラニ王女(1)

もう1人、忘れてはならないのがカイウラニ王女です。

彼女は1875年、アーチボルド・クレゴーンというスコットランド人を父、カラカウア の妹リケリケを母として生まれました。生まれてすぐカラカウア家に養女に出され、そこ でプリンセスとして養育されることになったのです。カラカウア王が、日本の明治天皇に カイウラニと日本の山階宮の縁談を相談したとき、彼女はまだ5歳でした。

1889年から、彼女はカラカウア王の指示でイギリスに留学します。留学中にカラカウ アは死去し、叔母のリリウオカラニから王位継承権第1位を指名されることになります。 もともと美しい顔立ちだった彼女は、ヨーロッパ社交界の教養も身につけ、イギリスだけ でなく、フランスでも社交界の華になっていました。政変が続くハワイの事情から、彼女 の帰国は延び続けていましたが、ついにハワイ王朝そのものの崩壊のしらせが入ります。

暫定政府が樹立宣言を行ったのは1893年1月17日ですが、翌日には、その承認を求 めて、政府側からサーストンがワシントンに向かいました。(元)王室側も、樹立を不服 としてワシントンに特使を派遣しようとしますが、サーストンらが同船を拒否、王室側は 2週間遅れてホノルルを出航します。

カイウラニ王女 Bishop 

Museum所蔵絵画 カイウラニが事件の知らせを受けたのは1月31日。彼女は即断即決、イギリスを発って アメリカに向かったのです。このとき、ニューヨーク港では、事件を知った記者たちが、 「野蛮なハワイ人の娘」が嘆願にやってくるらしい、ということで待ち構えていました。 ところが、カイウラニの洗練された容姿と感動的なスピーチに、記者達は度肝を抜かれます。 ニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になったのです。

ときの大統領はクリーブランド。王室側からの特使コアは、結局、大統領との面会を許さ れず途方に暮れていましたが、自由意志で行動しているカイウラニには、大統領夫妻から 昼食会への招待状が届くのです。カイウラニから事情を聞いた大統領はその日のうちに、 サーストンらの主張を退け、事情を正式に徹底調査する旨約束してくれたのです。 カイウラニ18歳のときのできごとです。

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