■カプの起源
12世紀頃、高僧パアオがハワイに来る以前は、カプはそれほど厳しいものではなかった
といいます。男女は一緒に食事をし、寺院はオープンで男女一緒に祈りに行っていたよう
です。サモアとかタヒチの南ポリネシアはハワイよりも社会的成熟度が高く、多くの規制
をもつ社会でした。これが幸か不幸か、移住者と共にハワイにやってきたのです。
社会秩序を維持するために存在したほうがよいカプもたくさんありましたが、酋長の気ま
ぐれで厳しいカプが乱発されることもありました。もっともそういう酋長はなんらかの天
罰で自ら身を滅ぼすことが多かったようではありますが。
とにかく、12世紀以降、ハワイではカプが独自に進化拡大し、人々は常に何かに怯えな
がら生きていかざるを得なかった。というのは事実のようです。楽園でのんびりと暮らし
ていたわけではなかったようです。
■罪と罰
カプを破ったものは通常、死罪でした。それを免れるためには、(1)酋長が特別にカナ
ワイ(免罪)を通達するか、(2)プウホヌアに逃げ込む、という2つの方法がありまし
たが、どちらも簡単ではなかったようです。後者では、通常、プウホヌアの周りには僧侶
たちの家が立ち並んでいるか、断崖絶壁のどちらかで、追っ手を振り切ってプウホヌアに
たどり着くのは並大抵のことではなかったようです。
また、必ずしもカプ破りが目撃されていなくても、必ず神がそれを見ていて天罰を下した
といわれます。
■カプの終焉
1819年4月、カメハメハ大王が亡くなった直後、未亡人の摂政カアフマヌはカメハメ
ハ2世、リホリホの名でカプ禁止の宣言を行いました。国王リホリホ自身が女性と共に座
って食事をし、何の天罰も落ちてこないことを証明したのです。
ヘイアウは打ち壊され、偶像は埋められ、神官達は職を失いました。これは、当時絶大な
力を持っていた神官たちの手から、カメハメハほどのカリスマ性を持たないリホリホを守
り、中央集権化を進めようとするカアフマヌの戦略だとも言われています。
さらに1824年、女神ペレの存在が否定されるという大事件が起こります。否定したの
はヒロの酋長の娘カピオラニ。(カラカウア王の后もカピオラニという名前ですが別人で
す)。彼女はもともと裕福な酋長の娘として育ちながらあまり教育も受けず、数人の夫を
持って日々飲酒にふけるという、ふしだらな生活を送っていました。
ところが1822年、サーストン牧師との出会いが彼女の人生を一変させます。プロテス
タントに入信した彼女は、賢人ナイヘという名の夫ひとりを残して、残りの夫との結婚を
解消、ナイヘと共にみずから布教活動をはじめたのです。活動をはじめてすぐに障害とな
ったのが、根強い古代宗教、特にペレへの信仰でした。
1824年12月、彼女はペレに対抗すべく裸足でケアラケクアを出発、160kmの道
のりを歩いてキラウエア火山に向かいました。道中、ペレのカフナと自称する人たちから
さまざまな脅しや嫌がらせを受けますが、ついに火口に到着。なんと彼女は火口に立って
聖書を朗読、ペレへの捧げものであった神聖なオヘロの実を彼女自身が食べ、火口に石を
投げ入れるという、当時の人々からするとまさに悪魔の所業を行ったのです。
ペレの火口で聖書を読み上げるカピオラニ(by Herb K.Kane)
しかし、キラウエア火山が大爆発することもなく、カピオラニが呪い殺されることもあり
ませんでした。この日以来、人々は続々とキリスト教に入信していくことになるのです。
当時、欧米の新聞でもこの事件は取り上げられ、カピオラニは、極めて勇敢な聖女として
その名を広く世界に知られることとなったのです。
ただ昔ながらのしきたりや伝統はある日突然に完全に姿を消せるものではなく、カフナた
ちは地下に潜り、こっそりと秘密のうちに自分達の伝統を伝え続けたといわれています。